交換してもらった本

先日、コミティアに行って本を交換してもらいました。作品についてつまらないことを書くのは嫌なのですが、快く交換してくれた方方へのありがとうの気持ちをいったん忘れて思慮のないことを書きます。

にったあきひろにもらった。「楽しい宇宙人紹介」は彼らしいアイデア剥き出しの4ページの漫画。デジタルの濃淡で描かれた絵が印刷で見づらくなっている。「非ューマンドラマ」は50ページ弱の漫画で修行中という印象。彼の漫画はもっと短いものしか読んだことがなかったし、アイデアよりも話の流れに気を使っているものも読んだことがなかった。それ以前に新田の漫画は入手に失敗することが多かったので変化の流れがわからないという問題がある。
他の掲載作のなかで、岸本宏太の「キーウィが飼いたい!」が傑作です。これはインターネットで読んだことがあった、でも本のほうがいい、デジタルで舐めた手抜きで描いたみたいな正しく言えないけどその嫌〜な感じが薄れて柔らかくなっていて別物。草むらで拾ったヒナなんてすぐ死ぬと思うんだけど、10年くらい省略して、どうでもいい存在として生活に溶け込んでいて、なんとなく子どもたちが小さかった頃を思い出させたりする。なんて美しいキーウィの命のどうでもよさなんだ。

内容はお説教なので嫌い。この漫画は上記の『:D』に再録されている。会場に来ていた寳樂圭は単品で本になっているもののほうが断然いいと言っていた。『焚火』は中綴じA5判、『:D』は平綴じで126mm×176mm。中綴じは見開きの見晴らしがいいけど、個人的には平綴じでノドが見えにくくなってしまうのも萌えなので判断できない。

  • 岸本宏太、2014、『絶望くんとユキさん』1巻

完結していないものについては書かないことにしているので、なし。岸本は、何年も勤めたラーメン屋のアルバイトを今年度いっぱいで辞めて漫画を描くと言っていた。

落書きのある紙を押し付けて交換させられた。コミティアアートサブカル界隈には落書きやゴミを褒めるのがクールという流行り風邪がかつて起きた。しかし、当然落書きの多くはゴミであり、ゴミはゴミである。新作なしの聖地ビッグサイト立ち入りは許されちゃいけない。私は初心に帰って、このゴミを「百頭たけし氏の投稿として『フツパ』に載せてくれ」とお願いして中島に渡した。あれのどこが気に入ったのかわからないけど載せると約束してくれた。

  • 藤城嘘、2014、『サークルリスト』

イベントの出品者をメモした紙をその場で畳んで、表紙と名前と日付とノンブルを記したもの。藤城の落書きは0.0001パーセントのほうに属する金の落書きだとされていて、ゴミであると同時にしかし断固としてアートであり云々。

  • 中島武明編、2014、『フツパ』51号・52号

映画の扱き下ろしが読めるフリーペーパー。何度も挑戦したけど最後まで読めたことがない。こんな冷笑的な態度で52号まで作れるってどういうことなんだ。たぶん『フツパ』は文化の化石みたいなもので、そう思うと通読する必要はないんだと心が軽くなる。でもそれよりとにかく自分で映画を撮ってほしい。

音楽が7曲と漫画。漫画は疲れた人たちが殺人ウーパールーパーに変身する話。甘く切ない味とは前回のコミティアではじめて会って、その日に眼科画廊で再び会って、ARiKEMさんと3人でご飯を食べた。なぜこのようなつらい物語を描いているのか、本人の印象と結び付きにくい。というような質問を既に本人にしたような気がする、気がしてきた。ところで、最近、アイフォンの画面がばりんばりんに割れている人というのはヒステリー持ちなんじゃないかということを考えた。なかには本当に意図せず、偶然、避けられない事情で泣く泣く割ってしまった人もいるだろうけれど、そういう同情できる真実はレアケースだろうと思う。人並みにiPhoneへの思いやりの心を持っていればそんなこと――充分な強度を持った画面が粉粉になるほど激しく何度も地面にうっかり叩き落すなんてこと!――簡単にはできないはずだから。iPhoneが赤ちゃんだったら死んでるわけだから。つまり精神がいっちゃって故意に激しくコンクリにぶっ叩きつけてぶっ壊してる人がほとんどだという可能性に気付いた。それで翌日、「そのばりんばりんどうしちゃったの」と必ず聞かれるだろう。定番の質問に対して、アイフォンユーザーはポケットから出すときに落としちゃったとかなんとか平気で嘘を吐くという、そう考えるとあいつら本当に恐ろしいね。人間じゃないね。これって少し『パフィオペディルムの上、ひとり』の物語に似ていませんか。感想の代わりになりますよね。

これは8月の終わりにもらった本。今回もらったのは同日開催の豆腐イベントのあんドーナツと入浴剤。彼が奥の細道にはまっていたことと、不良漫画雑誌を買って読んでいたことを知っている。名句が最後に書かれいる。

サングラスはずして眩しき生命かな

色と形の刺激が強い。他にもどこかを刺激されているような気はするけどわからない。我我はキャラクターを奇形にしたり物語のなかで散々な目に合わせたり、いじめ抜いてきたという気持ちを最近感じる。

200ページくらいあれば感慨かなにかが生まれるかもしれないけど、2本とも短過ぎて感想を書くのが難しい。星型に切って貼ったシールがださい!いらないと言ってるのに一輪社が置いていった入浴剤を片桐にあげた。

  • SS6ky、2014、『Button Hole City - Introductory chapter』

なぜだかたぶんこの本も片桐にもらった。いいのだろうか。第三者の本をくれる場合は説明してもらえると助かります。間違えて渡してしまったということなら返却します。これも完結していないので余計なことを言わないでおきます。ありがとうございます。

寳樂の作品は、「『救うこと』も『救われること』も出来なくて別によいのだ。」という6ページ。彼はこうやって自分の発言を編集し直すことをもっとやったほうがいい。この作品ではアイドルに関する発言が選ばれ、そのための絵が描かれてのなかにツイッターでの過去の発言を配置している。寳樂のツイートはとても頭でっかちな書き方で、なんだか理屈を通すことを優先して背景にある感情をほとんど台無しにしている感じがする。それにツイッターのせいもあってか、堂堂巡りしているように見える。時間が経ってから編集されることによってはじめて、寳樂さんはこういう気持ちを伝えたかったんだとわかった。
この本は、寳樂が働いている美術の学校のクラスかゼミかなにかそういうもので作ったそうなので、他の掲載作品はたぶん学部生のもので、とくに取り上げるべきものはない。ただ、ひとつ、「ダサい女子」という作品がいいかげんで不快だった。ああいうものには教師として駄目を出してもらいたい。

なんなんだよこの料理の写真は。つっこみどころが多くファンタスティックだ。わけのわからない心地よさ、飄飄感いっぱいの本のなかで、真面目な丁寧さで描かれたdong-hangの漫画が浮いている。フキダシの形がすべて機械的な細長い楕円なのはよくない。扉の写真と書体もしっくりこないのでしわしわが絵に描き直すかなにかしてほしい。
漫画を描いた3人は食べものの話を描けって指示されていると思うけど、福士千裕と嘉江の漫画は食べものについての話だと意識させないのがいい(本全体のふざけた方針とシンクロしている)。手書きの文字も完璧な美しさ。嘉江先生の原稿のあちこちの汚れも作風と言える領域にまで達している。福士の漫画は全コマ・全台詞決まってて完成されたスタイルなのかもしれないが、いつかは、ページ毎に時空が飛ぶのではない長編を見たい。
漫画主体の本で、しわしわくだもののように編集・デザインの力を見せようとする人はいなかった。随時パクっていきたい。

罫線入りのA6ノートをページがばらばらにならないように破り取ったもの。ボールペンで描いた絵と鉛筆で描いた絵がある。展示されたり本になったりしているものとはまた違った味わいがありますな。イベントが16時に終わって、目的地が一緒だったのでしわしわと3人で展示を見に行った。



一冊、写真を貼らないまま渡してしまった本があります。なくても全然問題ないものなのですが、どっちかと言ったらないほうがいいくらいです、もし教えてくださったら写真だけ送ります。よろしくお願いします。